いびがわの色々なまつり

いびまつり



 揖斐の初代の殿様岡田善同は、農民が洪水にあう度毎に田畑が荒れ、それにともなって人心も荒れ、農から離れるのを嘆き、何とか心の安らぎをと、第一に領下の祭礼を改善し、人々の楽しみをはかりたいと願いました。そして最初に花御輿、花山をつくり町を練り歩かせた後、神に奉納する祭りにきりかえられました。これが今に伝わる祭りの最初といわれます。  記録によりますと、享保五年上町組がシヤギリ坊主を拵え、町を練ったと記されていますが、年々作りかえ改造して手を加えて現在の山ができました。  祭礼は毎年五月一日から五日まで子供歌舞伎が上演されます。

打囃し


 山の打囃しは揖斐独特のにぎやかな「囃し方」によつて山の後部で奏せられ、楽器は、太鼓、小太鼓、鉦、笛で、笛は六つの穴の「しのぶえ」これが数本にて編成されています。  打囃しは、各町内祭礼会所前と山を三輪神社の鳥居前にすえ、神社に挨拶する意味で奏でる曲で、各町内によつてちがいます。”道ゆき”は山が町を練って神社へ行く時の曲で、山の行進曲とでも言うのでしょう。にぎやかな音曲は、人々の心をうきうきさせます。 ”かえりやま”は夜歌舞伎もすんで、それぞれの町内へ帰る時の曲で、哀愁にみちたこの曲を聞くと山も人もあのにぎやかな祭り気分も静かに消え、家路につく名残りおしさに涙ぐむ程です。そして、又来年の祭りにと願いをこめるのです。  こうして祭り毎に古老から若連へと山と共に受け継いでいきます。

●ここで使っている山の漢字は実際は車ヘンに山と書きます。




北方踊り


 昔から北方地区の反原の地に伝承されてきた雨乞い踊りです。  旱天が続くと、雨を望み村人全員が外に出て、中には背にしないを負い、鉦を打ち太鼓を鳴らし、村人全てが雨を得ょうと心を合わせ切望することを明にすれば、神も心を動かされ、お蔭をこうむることができると信じ、一人残らず踊りに夢中になる。それが祈願でした。  そんな素朴な願いが、北方踊りとして今に伝えられてきました。








桂古代踊り


 桂古代踊りは、今から六百五十年程前、土岐氏が揖斐城を築き、桂に館を建てて住み、桂千軒といわれる程に栄えた頃、武将たちが戦勝を祝い、士気を鼓舞するために踊ったのが始まりと伝えられている。  揖斐城が落とされ、桂の部落も焼失してからは一時途絶えたが、江戸時代には雨乞い祈願や秋の収穫感謝の踊りとして踊りつがれてきたと伝えられている。  明治になつてからは、為政者たちがカを入れて継承してくれました。特に大正の頃には太田與三助村長が中心となつて若い衆の指導をされた。田畑に働いている人も、鐘や太鼓の音が聞こえてくると、みんな集まつて踊りの練習に励んだものだという。  昭和六十年代になって、時の若い衆が踊り継がねばとて、古老の人たちに指導を受け踊ってくれた。村祭りや地蔵祭りは勿論、更に町民運動会や農業祭等に招かれて毎年踊ってきた。  平成二年には、小中学生を加え、新しく太鼓を購入し、シナイを作って踊りの輪を広げた。平成二年十二月には揖斐川町重要無形文化財の指定を受けた。
















白樫踊り


 今から凡そ八百年昔に始まつたといわれます。旱天が続くと、夜叉ケ池と古鹿ケ池の竜神に雨乞いをしました。ある年旱天が続き田畑の水が渇れ果てた折、大垣城主の勧めもあって、白樫山の中腹踊り小場で、脛永の法幢寺が七日間雨乞いをされました。おかげで雨は降り続き、雨乞い踊りは豊年踊りとして奉納されました。由緒ある踊りとして藩主の耳に達し、以後戸田家の紋所九曜星をつけることを許され今日に至っています。









黒田神楽


 今から二百年程昔、寛政二年十一月大垣蕃主戸田氏教公が幕府の老中職に就任しました。江戸幕府のこれ程の要職に就いた事のない藩では、領内総力を挙げて祝賀会を催しました。  その時黒田村においても、前々より雨乞い踊りなど祝賀の時にも踊ってきましたが、この際と衆議一決して、大野郡田の上村(本巣郡巣南町)に伝わる神楽(獅子舞)細工芝居の伝授を受け、以来年々祭礼行事として伝承してきました。





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